きことわ

きことわ

きことわ


で、もう一方の芥川賞。こちらも単行本かったわけではなく、文芸春秋に掲載されてるのを拝読しただけです、ごめんなさい。


どちらを先に読むかは結構大事だったんだな、と今頃気付きました。あと初心者は、ひとの意見も聞きながら読むってのが大事ですね。まさにソーシャル?苦役列車を読んだ後に芥川賞の選評に目を通して、それから「きことわ」に進んだ訳ですが選評から楽しむためのヒントを頂けました。


たとえば島田雅彦さんの表現が秀逸で「朝吹は時間の処理の技術に長けているし、プルーストやデュラスのように味覚や嗅覚をたよりに記憶を編み直し、こうであったかもしれない過去を再現するのはお手のものだろう。彼女の文章表現は五感の全てに良く連動してもいる」といった感じ。


それに対する本作中の「一口に三分といっても、カップラーメンを待つ、風邪が吹きすさぶ早朝に電車を待つと言った三分間はながく感じられる。公衆電話の三分十円は会話する相手によりけりだけれど、ウルトラマンは三分もあればじゅうぶんすぎる。時間というのは、疾く過ぎていくようであり、また遅延し続けるようでもあり、いつも同じ尺で流れてゆかない。」のような表現。


あと「貴子は、自分が母親に会えないのは、母親にみられている夢の人だからではないかと思った。母親が起きている間貴子は眠り、貴子が起きている間母親は貴子の夢をみている。自分は夢にみられた人なのだから、夢をいつまでもみないのではないかと、それこそ夢のようなことを、とぎれとぎれの意識のなかで思っていた」とか
「影もからまっているとふたりで影をさして笑っていると、電話の回線が過去につながっているように思えると和雄が言った。」とか面白い表現だなぁ、と。


小説なんて書けるものなら書いてみたいが、それこそ机に向かい始めて三分もかからずに挫折することを何度くりかえしてきただろうか。やっぱり「持ってる」人は違いますね。ありふれたテーマでも書き方次第で別次元の出来事のようにみえる。


「そっか、ストーリーを楽しむだけじゃないんだ」ということに、この歳で気付いた。(たぶん何度目かの気づきなんだろうけど)この不遇を乗り越えて色んなものを取り込んでいきましょう。


それにしても、貴子と永遠子みたいに、長いブランクを経た後も違和感なくコミュニケーションできる間柄が構築できたら素晴らしいなぁ。