多読術 (ちくまプリマー新書)
- 作者: 松岡正剛
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2009/04/08
- メディア: 新書
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タイトルに騙されることなく、ちゃんと読んで良かった。
多読術って、本を多く読むための方法なんて方法に興味はないし、ただ多量に読めば良いってもんでもないと思う。
その本から自分が必要な情報だけを効率的に抽出し、血肉としていく、みたいな昨今の風潮は決して間違ってないけど、そうじゃない世界を知らないのは悲し過ぎる。決してインプット一辺倒であってはならない、というかインプットだと思い込んでるだけで実は自分の中の編集構造が呼び出されて一部が上書きされてるにすぎない。
インタビュー形式にしたことにどのような意味を持たせたのかは理解できなかったけど、東京−横浜間で読み飛ばすには勿体ない名著で、ていうか、こういうスタンスをもっと若いころに確立しておきたかった。
いや正直な話、若いころにも松岡さんの本よんでたけど、ぜんぜん意図が分かってなかった。読み違えてたというよりは、手も足も出なかったというか。否、いまも読みきれてはいないのですが(笑)。それにしても、あの頃は読むフリばっかりだったなぁ。
極端な言い方になりますが、自分が必要とする情報に辿り着く方法には2つあって、それを志向して何となく進めていくのと、そうじゃない部分を正確に把握して、残ったのが必要な部分だぜ、みたいなやり方。どちらからでも必要な情報に辿り着くんだけど、(どうせ限定的なものにはなるのだが)全体構造との関係性において語れる方がそれっぽいと、私は思う。
そういう価値観なもんで、松岡さんみたいに全てを整理していけたら素晴らしいとは思うんだが、今のところやり切れる気がしない。でも自分なりの方法でそっちの方へは歩いていこう。
以下、メモ
- 読書は、誰かが書いた文章を読むことです。それはそのとおりです。けれども、自分の感情や意識を無にして読めるかといえば、そんなことは不可能である。読書って、誰もが体験しているように、読んでいるハナからいろいろなことを感じたり、、考えてしまうものなんです。
- つまり読書というのは、書いてあることと自分が感じることが「まざる」ということなんです。
- ということは、読書は著者が書いたことを理解するためだけにあるのではなく、一種のコラボレーションなんです。
- 書くという行為さえ、純粋に自己認識や自己表現を進行できているわけじゃないんですね。「書き手」は「書き手」で、同時に「読み手」にもなっている。
- 著者が書くという行為は、読者が読むという行為と極めて酷似している(要は、自分が書いてるような気持で読めばよいのかな)
- 人類が黙読できるようになったのは、14世紀から16世紀ぐらい。活版印刷などの影響で黙読社会が確立されたことにより、脳の中に「無意識」が発生したのかも。音読の世界では、言葉と意識は身体的につながっていたのに、黙読により言葉と体の間のどこかに何かが入り込む余地がでてきた。(逆に言うと、音読はとてつもなく重要であるということ)(あいだに入る何かをコントロールするとまた面白い)
- 本は三冊の並びでつながっている。図書館のような表向きの分類ではなく、自分でつながりを考えて並びを作ってみること。
- 本はいろいろな読み方をするべきで、つまりは平均的な読書を求めてもダメ。
- 感読、耽読、惜読、愛読、敢読、氾読、食読、録読、味読、雑読、狭読、乱読、吟読、攻読、系読、引読、広読、精読、閑読、蛮読、散読、粗読、筋読、熟読、逆読、
- ラーメンとフレンチで食べ方が異なるように、本も内容に合わせて読み方を変えよう
- 菅茶山の「黄葉夕陽村舎」、広瀬淡窓の「咸宜園」、池田草庵の「青けい書院」
- 読書は伏せられたものが開いていくという作業
- 知人や友人や先輩との会話の中で、本を介在した会話ができること自体が、他の会話に比べてうんと密度や質感をもたらしてくれるものだ
- たいていの物語も、このオムニシエントな鳥瞰的な「鳥の目」による描写と、主人公などがその地点に限定的にいるときの「足の目」による描写で成り立っている。読書する時も、これをかわるがわる使う必要があります。
- 単語の目録とイメージの辞書とルールの群
- ピンポイントに検索しているということは、いちじるしく私たちの連想力を落としている