リスクに背を向ける日本人 (講談社現代新書)

リスクに背を向ける日本人 (講談社現代新書)

リスクに背を向ける日本人 (講談社現代新書)


けっこう前に購入していたのですが、ようやく読めました。さすが山岸先生、分かりやすくて為になります。


リスクに背を向け続ける日本人は、すでに飲み込まれつつある本当のリスクを認識することすら出来ない、という恐ろしいメッセージはオブラートに包み、日本人のリスク回避性向について多様な実験や他文化との比較検討などから深掘り。


日本人とアメリカ人の対談形式で軽く読みやすく構成されていて比較文化論的な読みものとしても普通に面白いです。でも、別にデフォルト戦略としてのリスク回避を批判するわけじゃない、とか何度も言われてますが、なにしろ耳の痛い話ばかりで困ります。


自分なりに色々と考えて生きてきたつもりだったけど、各所で制約次項となっていたものは自ら設定していた呪縛にすぎなかったわけです(全部じゃないけど)。。。


それは視野の狭さ、と一言で片付けて良いものでなく、なぜ自分の視野が狭いかを構造的に理解しておかないと、あくまで相対的な多少の拡張程度しか達成できない。


敢えて波風たてる必要も無いけど、必要以上に周囲との調和を重視する必要はもっと無いわけだ。どころか、その先には共倒れしかない。ちゃんと外でも通用する考え方とかスキルを意識していかないと。


できることなら、もう少し「失敗」を織り込んでいきたい。失敗の種類とか内容にもよるが、定常的に「失敗」が発生しないプロジェクトは、すでにMacJobな可能性が高いので気をつけようとか思います。HBRの7月号がその辺の特集だった気が。早く読まねば。


(それにしても相変わらず書評にならない。。。まぁ自分用メモだからいいや、なんて言い訳を続けるのもどうかと思うが。)
メモ:

  • P.13 言語と文化の関係という点から日本語に興味を持ちました。たとえば、お互いの上下関係をしっかり理解していないと話をすることさえ出来ない、といった点です。


  • P.36 例えば、多くの日本人には、セカンドチャンスがあることが雇用の安定なんだという考え方が全くない。雇用の安定イコール終身雇用で、首を切らないことだと思っている。それだけじゃなくて、同じ会社で雇用し続けることが良いことで道徳的なことであると考えるようになっている。そうした考え方の罠にはまってしまっていると言っていい。


  • P.46 最近、心理学でよく使われる言葉に「プロモーション志向」と「プリベンション志向」があります。要するに加点法的な考え方と、減点法的な考え方という違い。プロモーション志向の強い人は、何かを得ることに向かって行動する。プリベンション志向の強い人は、何かを失うことを避けるように行動する


  • P.46 ゲームプレイヤーでない人たちというのは、プリベンション志向の強い人たちだといって良いでしょう。自分が目指す目的を達成するためにほかの人たちを動かすと言うよりは、まわりの人たちから嫌われたらやっていけないのではないかという不安から、他人から嫌われたり、社会関係を失わないことだけに気を取られてしまっている人たちです。


  • P.67 社会科学というのは、人々が自分たち自身を自分で縛り付けている状態から抜け出す助けをする学問なんじゃないかってこと。中略。別の言い方をすると、ぼくが研究を通してやりたかったことは、常識を揺さぶることなんだと思う。
    • 本筋とは違うところかもしれませんが個人的には大変な金言。自分のやりたいことのなかにも「常識を揺さぶること」という要素は必ずある気がする。


  • P.77 アメリカの若者にとっては「外側の世界」が、自分を制約する存在つまりコンストレイントではなくて、自分が働きかける存在として意識されているんだと思う。日本の若者にとっては「外側の世界」はまだコンストレイントとして働いているように思える。


  • P.98 実験に参加した人たちに一種の知能テストをやってもらって、テストの後に質問紙で「あなたの成績は、このテストを受けた人たちの平均よりも上だったと思いますか、それとも下だったと思いますか?」と訪ねてみた。そうすると、この実験に参加した北大生の7割は、下だと思うと答えている。その傾向はアメリカ人(スタンフォード大学の学生)では見られません。ところが、「答えが当たっていたら、余分にお金をあげます」と言って成績についてたずねると、今度はほぼ7割の人が「上だと思う」と答えるようになった。ただ自分の成績についてどう思うかをたずねられたときには、自分の意見をちゃんと表明しないといけない理由がない。そうしたときには、ともかく無難な答えをする。つまり「私はたいしたことない」と答えるのがデフォルト戦略なんです。このことが意味するのは、自分は他人よりも優れていると思いがちな傾向には文化差がないんだけど、ふつうのやり方で質問紙でたずねると、デフォルトの回答の仕方が違うから文化差があるように思えてしまう、ということ。


  • P.100 日本人にとって無難な行動は、まわりの人から非難されたり嫌われたりしない行動。よく事情が分からないときには、とりあえずそういう行動をとっておく。そういう行動をとっていると、ほんとうに欲しいものを手に入れることが出来なくなると言うコストはあるけど、まわりの人たちからつまはじきにされてしまうという、もっとも大きなコストの発生を避けることが出来るから。アメリカ人にとては、今まわりにいる人たちから嫌われても、別のチャンスがあると考えているから、自分の欲しいものを我慢してまで嫌われるのを避けるというデフォルトの行動は、あまり賢い行動ではない。中略。日本人とアメリカ人のやり方のどちらが優れているというわけでなく、日本の社会では嫌われるのを避けるデフォルト戦略がうまくいくし、アメリカの社会では自分の意見や権利を主張するデフォルト戦略がうまくいくんだと思う


  • P.132 周りの目を気にする傾向が強い人たちは、まわりから監視されている状況では協力するんだけど、実験室で完全な匿名性を保障されると、自分の利益を優先する行動を取りやすくなる。中略。それから、この研究では「独立的」な傾向の強い人の方が、まわりの目を気にする人よりも実はほかの人と協力することの大切さを理解していた。


  • P.136 自分のことに注意を向けて、相手が自分のことをどう思っているかを気にするのではなくて、注意をコミュニケーションに向けて「私のゴールは私のメッセージを相手に伝え、相手に私のメッセージを理解してもらうことだ」と思うようにすれば、自分がどう思われるかといったことが気にならなくなりますね。
    • これは耳が痛い。たまに、この手の勘違いにより私のアクションは数歩遅れてしまいます。何かを後回ししそうになったら、このフレーズを思いだそう。


  • P.145 妊娠の初期には外からは分かりにくいから、そうしたキーホルダーを身につけるのは論理的なように思えます。だけどアメリカでは、とても考えられません。どうしてかって言うと、席が必要な場合は、「妊娠中なので、席を譲ってもらえませんか」と口にするからです。キーホルダーではなくて、口を使うんですね。


  • P.163 家族や性別役割についての考え方が柔軟な国々では出生率が比較的高く、家族や性別役割について伝統的な考え方(産業化が進み収入が増えたのに、子供を産んで育てるためにはちゃんと結婚していないといけないとか、家事や子育ては女性の責任だとか)が広く受け入れられている国々では出生率が極端に低く、深刻な少子化が起こっている。
    • 歴史や伝統だって「成功の罠」になり得るということか。ちょっと消化の難しい話になりかねない。


  • P.174 ヨーロッパやアメリカでは、コミュニティや職場でアフェクションを手に入れることが難しくなっているので、家族がますます重要になっている。たとえば日本では、つい最近まで職場の同僚と仕事の帰りに飲みに行って愚痴をこぼしあったり、励まし合ったりするのが普通だったが、これは職場で同僚達がアフェクションを与え合っているってこと。だからアフェクションを手に入れるために家族に全面的に依存する必要が無い。
    • 飲みにケーション理論を別の角度から下支えする説ですね、初耳。家庭に居場所がないから毎晩のみにいくのか、飲みに付き合ってくれる人がいるから家庭に居場所がいらないのか。


  • P.204 日本人のネットワークづくりは、家族や親戚、親しい友人、学校の先輩など、いわば身内との繋がりを大切にするストロングタイズを大切にしてきた。つまり内に向かっての「安心」を第一に考えてきた。でも、そこから得られる情報の内容は限られており、すでに自分も知っていたりすることが多い。
    • Facebook流行の昨今、けっこう実感する話ですよね。人見知りしてる場合じゃないぞ。>自分


  • P.224 貧困の文化が生まれてしまうと、社会の底辺に置かれた人たちがやる気を失ってしまう。そういう文化では、親もひどい親だったりするし、そういうふうに育ってきているから自分の子供にも同じようにしてしまう。まさに悪循環で解決の糸口が見つからない。唯一の方法は、やる気をだせば状況がよくなるという環境を作ること


  • P.243 ひとりひとりの日本人が持っている父親像や母親像が固定しているので、どちらかを選ばないといけなくなるというのではなく、ひとりひとりの日本人はそんなことをしたくないんだけど、そうしないと大変な目に遭ってしまうと思い込んでいる。さらに、そうした思い込みに反した行動をしている人を非難しないと、自分も仲間だと思われて大変な目に遭ってしまうと思い込んでいる。だから、誰も個人的には望んでいない状況が、集団主義的な秩序として出来上がってしまう。ある信念体系が自己維持的になっている状態と言ってもいい。ぼくはそうした状態を「制度」とよんでいるんだけど、そういう状態が出来上がってしまうと、そこから逃げ出せなくなってしまう。(中略)要するに重要なのは、そんなことをしたら大変な目に遭うという思い込みが、誰も個人的には望んでいないにもかかわらず人々の行動を縛っている、ということ。