日本辺境論 (新潮新書)

日本辺境論 (新潮新書)

日本辺境論 (新潮新書)


またしても息子へ宛てた手紙形式の読書メモ。なかなかスタイルが確立できない。まぁ、いいや。


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今日は2011年の5月1日、いわゆるゴールデンウィークの真っ最中です。


なんとなく海外渡航を諦め、実家巡り+αぐらいでお茶を濁そうしていますが、あなたとじっくり遊べることになって両家の祖父母は大喜びしてますし、私から見るとよい親孝行になってるので、これはこれで幸せな形なのかもしれませんね。


さて、今日紹介するのは内田樹さんの「日本辺境論」という本です。


そもそも樹って読めますか?Tatsuru、だそうです。


とても読みやすい文体なんですが、内容と相まって「大学入試の国語の試験」に出されそうな文章という印象をもってしまいました。


それはさておき、現時点ではわたしは超ドメスティックな生活を送っています。そしてそれは残念ながら本意とは言えなくなっている状況です。先日の震災で少し目先が変わりつつありますが、わたしの生きる現代の日本はだいぶ残念な状態です。


日本に限らず、経済成長を遂げた国が必ず陥る病から長いこと抜け出すことが出来ずにいるんですが、その原因を分かっていながら諸々先延ばしにして何とかその場を凌ごうとする、結局自分たちで自分たちの首を絞めているような状態が、もう20年近く続いています。


そんな閉塞的な時代に長くいると、どうしたって隣の芝生が青く見えてくるし、日本って何がダメなんだろう、とか考えるようにもなってくるわけです。


あなたが日本と日本以外をどのように捉えているか、とても興味がありますが、きっと今よりは世界中の人々と交流する機会も増えているでしょうし、父親としては出来ればそのような場の提供ぐらいはしてあげられたらなとは思っています。


色んな国の人と接するときに、あなたは日本という国をどのように伝えるのでしょうか。自分の考える日本らしさ、その強みと弱み、できれば多少は歴史を紐解きつつ。そんな話が出来たら、大変すてきだと思いませんか。


もちろん、それは時間を重ねて経験を積んで、絶えず塗り替え続けられるイメージなのだと思いますが、せっかく日本に生まれたのだから、少し関心を持ってもらえると父親としては嬉しいです。なんとなく。


前置きが長くなりました。「日本辺境論」は、一見ネガティブトーンで辺境人としての日本人の情けなさみたいな話からスタートするのですが、そのユニークネスの起源を多面的に解釈することで、強みに繋げていく可能性や、失われつつある何か、といったあたりにぼんやりと輪郭をつけていくような内容です。


わたしの感想としては、日頃感じている自身の不合理性に根拠を与えるというか、日々の感性のベースにある価値観を見事に言い当てられた気がして、気持ちいいような悔しいような、そんな不思議な気分です。


あんまり若いうちに読んでもピンと来ないかもしれないし、将来の日本は全く違う姿になるかもしれないけれど、歴史を紐解くという意味では凄く興味深い内容なので、ぜひ読んでみてください。


あまりにも感覚的に理解できない部分があれば、遠慮なくわたしやお母さんに聞いてみてくださいね。


では、また。


あ、そういえば何故かサイン入りのを持ってますよ、この本。





メモ:

  • P.23 私たちが日本文化とは何か、日本人とはどういう集団なのかについての洞察を組織的に失念するのは、日本文化論に「決定版」を与えず、同一の主題に繰り返し回帰する事こそが日本人の宿命だからです。


  • P.41 日本人のこの「親しさ」への固執、場の親密性を自分自身のアイデンティティの一貫性よりも優先させる傾向はすでにルース・ベネディクトが「菊と刀」で驚きとともに指摘していた事でした。


  • P.99 カミュが言っているのは、自分の主張について、それを主張するに先立ってその正しさを担保する「保証人」はいないということです。私の行為や判断の正しさは未来においてしか実証されない。


  • P.122 「虎の威を借る狐」は「虎」の定型的な振る舞い方については熟知していますが、「虎」がどうしてそのような振る舞い方をするようになったのか、その歴史的経緯も、深層構造も知らない。知る必要があるとさえ考えていない。だから、未知の状況に投じられたとき「虎」がどうふるまうかを予測する事が出来ない。


  • P.122 日本人がどうして自分たちが「ほんとうは何をしたいのか」を言えないのは、本質的に私たちが「狐」だからです。私たちはつねに他に規範を求めなければ、おのれの立つべき位置を決める事ができない。自分が何を欲望しているのかを、他社の欲望を模倣する事でしか知る事が出来ない。


  • P.139 彼らは「これとは違う記述の仕方もあるはずではないか。私自身の知的パフォーマンスの高度化という究極目的を達成するためには、これとは違うライティングスタイルの適否についても検討する事が有用ではないか」という問いをおそらく自分に向けたことがありません。


  • P.149 学びの極意、こんにゃく問答。弟子は師が教えたつもりのないことを学ぶ事ができる。


  • P.186 辺境人は「遅れてゲームに参加した」という歴史的なハンディを逆手に取って「遅れている」という自覚を持つ事は、「道」を極める上でも、師に仕える上でも、宗教的成熟を果たすためにも「善い事」なのであるという独特のローカルルールを採用しました。中略。私たちはつねに「呼びかけられるもの」として世界に出現し「呼びかけるもの」として「場を主宰する主体」として私は何をするのかという問いが意識に前景化することは決してありません。すでになされた事実にどう対応するか、それだけが問題であって、自分が事実を創出する側にたって考えると言う事が出来ない。


  • P.197 学ぶ力とは、先駆的に知る力です。自分に取ってそれが死活的に重要である事をいかなる論拠によっても証明できないにもかかわらず確信できる力のことです。中略。今の子供たちは「値札の貼られているものだけを注視し、値札が貼られていないものは無視する」ように教えられています。中略。「値札がついていないものは商品ではない」と教えられてきた子供たちが「今はその意味や有用性が表示されていないものの意味や有用性を先駆的に知る力」を発達させられるはずがない。中略。この力は資源の乏しい環境の中で生き延びるために不可欠の能力だったのです。


  • P.203 ヘーゲル的に言えば、「学び」というのは、本質的には自己発見だと言う事になります。自分の中にすでにおいてあったものをあとから発見する。もともと設計図に書いてあった自分と、実際に構築された自分がピタリと合致する。それが自己の成就である、と。


  • P.210 「自分の中にもともとあるもの」を把持しても、それは自分の資産目録には加算されない(資産は「外から来たもの」に限定される)というルールが身になじんでいるせいで、そういう感じ方そのものが地政学的に規定された心性なのだということをつい忘れてしまう。
    • 自分の中から新しい何かを探しだす、というのはライフログアプローチ的だなぁ。


  • P.221 日本的コミュニケーションの特徴は、メッセージのコンテンツの当否よりも、発信者受信者のどちらが「上位者」かの決定をあらゆる場合に優先させる(場合によってはそれだけで話が終わる事さえある)点にあります。
    • これ、すごくよく分かるんだけど、そういう部分が皆無、って人は少ないので暫くはみんなのそういう部分が目について凹みそうだ。自分だけでも改めよう。


  • P.241 日本人にとって、欧米語の翻訳とは要するに語の意味をくんでそれを二字の漢字に置き換えることだったからです。西周の例を見ても分かるように、彼がしたのも実は日本語訳ではなく漢訳なのです。外国語を外国語に置き換えただけです。ベースになるスポンジケーキは同じモノの使い回しで、トッピングだけ変えたのです。日本語が二重構造を持っているからこそ、これは可能だった。