国家の品格 (新潮新書)

国家の品格 (新潮新書)

国家の品格 (新潮新書)


旅行本強化週間の時に読んだ藤原さんの「若き数学者のアメリカ」が思いのほか面白かったので、今さらながら読んでみました。


タイトル的にも発売当初のバズった感じ的にも、気になる一方で正直あんまり手にしたくないなぁという位置づけの本だったんですが、鎌倉散歩中に古本屋で3冊100円とかで購入しました。ちなみに他の2冊は、遠藤周作さんの「深い河」と椎名誠さんの「全日本食えば食える図鑑」。変な取り合わせ。


余談が長くなりましたが、「若き数学者のアメリカ」の中で繰り広げられていた藤原節(当時30代?)が、約30年後に著した本作においても健在なところがすごい。やはり芯が通ってる人は違いますね。


世界中で色々と行き詰まっている昨今、鍵を握るのは伝統的な日本人らしさであり、世界を救うのは日本人である、なんて話を聞いても何だか胡散臭く感じてしまう私は既に日本人らしさがだいぶ薄らいできているのかも知れませんし、もしそのロジックを許容できたとしてもその先へどう繋げたものか。。。


でも子供のことを考えると、確かに日本人的な感性を損なって欲しくないという気持ちはあるし、そのためには自分自身がそうでないといけないとは強く思う。そんなモチベーションで日本人らしさについて考えたり近しい人と語り合うぐらいから始めたらよいのかな。


英語教育の話とか天才を作り出す環境の話とか、ツッコミどころに溢れる部分もあるし、なんとなく説き伏せられて納得した感じはあるものの、どうもこの停滞状況の打破と国家の品格が結びつかない。これこそ「それはそういうものだ」と考えるべきなのかなw


メモ:

  • P.35 論理だけでは世界が破綻する4つの理由

1.論理の限界、人間の論理や理性には限界があり、論理を通してみても、それが本質を突いているかどうか判定できない。
2.最も重要なことは論理では説明できない、数学でさえ不完全性定理が証明されているのに。
3.論理には出発点が必要、最初の仮説を選ぶのは論理ではなく情緒とならざるをえない。
4.論理は長くなり得ない、世の中には1も0も存在しない。


P.42 ところが最近の若い人たちは、内容は何もないのに英語はペラペラしゃべるから、日本人の中身が空っぽであることがすっかりバレてしまいました。


P.83 過去はもちろん、現在においても未来においても、国民は常に世界中で未熟である。したがって、「成熟した判断が出来る国民」という民主主義の暗黙の前提は、永遠になりたたない。民主主義にはどうしても大きな修正をくわえる必要があります。


P.99 日本という土地には、台風や地震や洪水など、1年を通じて自然の驚異が絶えません。他国よりも余計に「悠久の自然と儚い人生」という対比を感じやすい。「無常観」というものを生み出しやすい風土なのでしょう。


P.105 アメリカ・ワシントン州のポトマック河沿いにも、荒川堤から持って行った美しいサクラが咲きます。日本の桜よりも美しいかもしれない。しかし、アメリカ人にとってそれは「ワンダフル」とか「ビューティフル」とか眺める対象に過ぎない。そこに儚い人生を投影しつつ、美しさに長嘆息するようなヒマ人はいません。


P.115 明治になって作られた愛国心という言葉には、はじめから「ナショナリズム(国益主義)」と「パトリオティズム(祖国愛)」の両方が流れ込んでいました。明治以降、この二つのもの、美と醜をないまぜにした「愛国心」が、国を混乱に導いてしまったような気がします。言語イコール思考なのです。


P.146 国際社会というのはオーケストラみたいなものです。オーケストラには、例えば弦楽器ならヴァイオリンとチェロとコントラバスがある。だからといって、ヴァイオリンとヴィオラとチェロとコントラバスを合わせたような音色の楽器を作って、オーケストラに参加しようとしても、必ず断られる。オーケストラはそんな楽器は必要としないからです。ヴァイオリンはヴァイオリンのように鳴ってはじめて価値がある。日本人は日本人のように思い、考え、行動してはじめて国際社会の場で価値を持つ。ガーナ人はガーナ人のように思い、考え、行動してはじめて国際社会の場で価値があるということです。


P.178 世界に向かって大声を上げる胆力もなく、おどおどと周囲の顔色を伺いながら、最小の犠牲でお茶をにごす、という屈辱的な態度なら、国際貢献など端から忘れた方がよいのです。そんなことに頭を使うより、日本は正々堂々と、経済成長を犠牲にしてでも品格ある国家を目指すべきです。そうなること自体が最大の国際貢献と言えるのです。品格ある国家、というすべての国家の目指すものを先んじて実現することは、人類の夢への水先案内にとなることだからです。